2011GW男旅:被災地 石巻レポート
2011年 06月 11日
今年のGWに決行した、2011男旅から1ヶ月。
訪れた被災地:石巻の現状をお伝えしなくては思いながら、
なかなかブログに書けませんでした。
思い出すのです…。
未だ復興が進まない震災地の現状を、
現地を回りながら教えていただいたのは、
旅を一緒にしたA氏のご友人K氏。
K氏は石巻で被災されたのです。
きっと思い出すのも辛いK氏が、私たちに見せてくれた事を
皆様にお伝えしなくてと思い、レポートをまとめながら
私自身、また辛さが思い起こされました。
しかし震災が起こって本日で3ヶ月経った今、
私が見聞きしてきたことをレポートさせていただきます。
-----
6月11日で東日本大震災からちょうど3ヶ月が経ちますが、
相変わらず一部の政治家は政争にあけくれています。
未だ義捐金も被災者になかなか届かない状況に、深い憤りを感じます。
また、仮設住宅の入居率は、完成戸数の約44%にとどまっているそうで、
理由は仮設への転居によって、避難所では受けられた食事支援が
受けられなくなったり、立地条件の悪さなどがあり
行政側が被災者のニーズをくみ取れていないようです
(6/10日経新聞より)
お役所仕事の典型的な姿でしょうが、
縦割り行政と無駄な役人の首を切らねば、日本の復興は
かなり遅れるのではないでしょか!
このレポートは旅を一緒にした、A氏の友人で石巻の造船所に
お勤めのK氏に、変わり果てた街の様子と、津波が襲ってきた
最前線にあるお勤め先の造船所、及び周辺を
K氏の解説を交えレポートいたします。
前日は雨の中、伊勢神宮から仙台まで、
約1000キロを今まで経験した事が無い強烈な睡魔との闘いで
命懸け辿り着きました。
翌朝は一転晴天に恵まれ石巻を目指します。
東北大地震石巻の震災をバイクで視察
石巻に入り、荒れ果てた状況に言葉を失います。
途中K氏が車で迎えに出てくれて、先導してご自宅へ。
K氏のご自宅は奇跡的に津波の被害はありませでした。
マップにある赤い部分は浸水したところ
石巻市は46%が浸水したようです
赤丸で囲んでいるところの白い部分半径500Mには
津波は来ませんでした。ここにK氏のご自宅があったのです!!
特に高台でもなかったこの地域。
奇跡としか言いようがありません。
何度もテレビでみた、津波が襲ってくる映像。
この小高い場所にある鹿島御児神社から撮影されたとのことですが
実際に自分の目で見ると、言葉になりません。
神社隣接地からの惨状
島のような場所は、震災前には公園だったそうですが、
石油タンクや家が流れ着いており面影もありません。
石巻を襲った惨劇をこの地に立つと、
自分が経験したかような気持ちになります。
誰が書いたのかはわかりませんが、心に響きます。
合掌。
K氏の案内で石巻中心市街地商店街の現状をお伝えします。
石巻市街地2
石巻市街地3
見てのとおり、開店しているお店はほとんど無く…
埃とヘドロの匂いでマスクをしている方を多く見かけます。
自転車を借りて石巻市役所まで向かう道中
次にK氏の勤務している造船所に向かいます。
石巻住宅地2
変わり果てた町の様子を、K氏は丁寧に答えてくれます。
テレビではあまり伝えられなかったようですが、
盗みや強盗もあり、治安はかなり悪かったようです。
ただ家も失い全てを失い、生きる為にどうしようもない状況に
もし自分がなったら…。
動画でA氏が言っていた、津波で流された1歳の子供の話は
今でも悪夢のように思い出します。
造船所までの市内
造船所までの市内2
造船所までの市内5
造船所(海)に近づくにつれ、津波の足跡がくっきりと残っています。
まさに地獄絵図のように今でも悪夢を見ているように思い起こします。
震災後の造船所
震災後の造船所内
K氏は3月11日の震災当日は、この造船所で勤務していました。
そこに今回の地震と津波が起こり、約100名以上の同僚と共に
動画の建物に避難しました。
海水は社屋の2階部分まで押し寄せ、冷たい水に浸かりながら
極寒の一晩を過ごしました。
社屋にあった400台を越す車は流されてしまったので
翌日には、いつまた来るかわからない津波の恐怖と
冷たい海水に浸かりながら、自宅までの約12キロの道程を
徒歩で帰宅したとのこと。
造船所付近水引かず
未だ海水に残ったままの車や残骸は
夕暮れの闇に包まれて絶望感に苛まれます。
夕暮れの残骸
帰り道、道端に番号だけつけられた墓地がありました。
(何箇所もあるそうです)
皆様、この大惨事は末永い支援が必要です。
身の丈に応じた支援で良いのです。
出来る範囲で支援をしていきましょう!
訪れた被災地:石巻の現状をお伝えしなくては思いながら、
なかなかブログに書けませんでした。
思い出すのです…。
未だ復興が進まない震災地の現状を、
現地を回りながら教えていただいたのは、
旅を一緒にしたA氏のご友人K氏。
K氏は石巻で被災されたのです。
きっと思い出すのも辛いK氏が、私たちに見せてくれた事を
皆様にお伝えしなくてと思い、レポートをまとめながら
私自身、また辛さが思い起こされました。
しかし震災が起こって本日で3ヶ月経った今、
私が見聞きしてきたことをレポートさせていただきます。
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6月11日で東日本大震災からちょうど3ヶ月が経ちますが、
相変わらず一部の政治家は政争にあけくれています。
未だ義捐金も被災者になかなか届かない状況に、深い憤りを感じます。
また、仮設住宅の入居率は、完成戸数の約44%にとどまっているそうで、
理由は仮設への転居によって、避難所では受けられた食事支援が
受けられなくなったり、立地条件の悪さなどがあり
行政側が被災者のニーズをくみ取れていないようです
(6/10日経新聞より)
お役所仕事の典型的な姿でしょうが、
縦割り行政と無駄な役人の首を切らねば、日本の復興は
かなり遅れるのではないでしょか!
このレポートは旅を一緒にした、A氏の友人で石巻の造船所に
お勤めのK氏に、変わり果てた街の様子と、津波が襲ってきた
最前線にあるお勤め先の造船所、及び周辺を
K氏の解説を交えレポートいたします。
前日は雨の中、伊勢神宮から仙台まで、
約1000キロを今まで経験した事が無い強烈な睡魔との闘いで
命懸け辿り着きました。
翌朝は一転晴天に恵まれ石巻を目指します。
東北大地震石巻の震災をバイクで視察
石巻に入り、荒れ果てた状況に言葉を失います。
途中K氏が車で迎えに出てくれて、先導してご自宅へ。
K氏のご自宅は奇跡的に津波の被害はありませでした。
マップにある赤い部分は浸水したところ
石巻市は46%が浸水したようです
赤丸で囲んでいるところの白い部分半径500Mには
津波は来ませんでした。ここにK氏のご自宅があったのです!!
特に高台でもなかったこの地域。
奇跡としか言いようがありません。
何度もテレビでみた、津波が襲ってくる映像。
この小高い場所にある鹿島御児神社から撮影されたとのことですが
実際に自分の目で見ると、言葉になりません。
神社隣接地からの惨状
島のような場所は、震災前には公園だったそうですが、
石油タンクや家が流れ着いており面影もありません。
石巻を襲った惨劇をこの地に立つと、
自分が経験したかような気持ちになります。
誰が書いたのかはわかりませんが、心に響きます。
合掌。
K氏の案内で石巻中心市街地商店街の現状をお伝えします。
石巻市街地2
石巻市街地3
見てのとおり、開店しているお店はほとんど無く…
埃とヘドロの匂いでマスクをしている方を多く見かけます。
自転車を借りて石巻市役所まで向かう道中
次にK氏の勤務している造船所に向かいます。
石巻住宅地2
変わり果てた町の様子を、K氏は丁寧に答えてくれます。
テレビではあまり伝えられなかったようですが、
盗みや強盗もあり、治安はかなり悪かったようです。
ただ家も失い全てを失い、生きる為にどうしようもない状況に
もし自分がなったら…。
動画でA氏が言っていた、津波で流された1歳の子供の話は
今でも悪夢のように思い出します。
造船所までの市内
造船所までの市内2
造船所までの市内5
造船所(海)に近づくにつれ、津波の足跡がくっきりと残っています。
まさに地獄絵図のように今でも悪夢を見ているように思い起こします。
震災後の造船所
震災後の造船所内
K氏は3月11日の震災当日は、この造船所で勤務していました。
そこに今回の地震と津波が起こり、約100名以上の同僚と共に
動画の建物に避難しました。
海水は社屋の2階部分まで押し寄せ、冷たい水に浸かりながら
極寒の一晩を過ごしました。
社屋にあった400台を越す車は流されてしまったので
翌日には、いつまた来るかわからない津波の恐怖と
冷たい海水に浸かりながら、自宅までの約12キロの道程を
徒歩で帰宅したとのこと。
造船所付近水引かず
未だ海水に残ったままの車や残骸は
夕暮れの闇に包まれて絶望感に苛まれます。
夕暮れの残骸
帰り道、道端に番号だけつけられた墓地がありました。
(何箇所もあるそうです)
皆様、この大惨事は末永い支援が必要です。
身の丈に応じた支援で良いのです。
出来る範囲で支援をしていきましょう!
by takeo_tsutsumi
| 2011-06-11 14:20
| 東日本大震災
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